自動車事故から学ぶこと

先日、家族で移動中に車で事故を起こしてしまいました。

ケガ人もなく、単なる自損事故だったのですが、妻からは詰られ散々な休日でした。

車は今も入院中です(><)

 

事故の原因は、私のセッカチな性格にあります。

家の近所の渋滞が嫌で裏道に逃げた際、狭い道でガリッとやってしまったのです・・・

 

人生の裏道街道を突っ走るわたしは、大通りの渋滞が大嫌いです。

例え裏道が遠回りだったとしても、動いていることでストレス発散できるので、

渋滞しているときは、ついつい裏道に入ってしまいます。

 

この性格が災いして、これまでも色々なミスを犯してきました(苦笑)

今回は、ようやく落ち着いてきたと思っていた矢先の事故でした。。。

 

 

事故をした時に備えて自動車保険に入っているのですが、私はこれまで最高等級(20等級)でした。

自動車保険の等級とは、通常は6等級から始まり、1年間保険を使わなければ1つ上がり、

1回使えば3等級下がって、等級が上がるほど保険料の割引率が上がる仕組みになっています。

ということは、私の長年にわたる無事故の結晶が20等級であり、事故とは無縁の日々だった訳です。

 

今回事故をしたことにより、1時的に17等級に下がりますが、3年間無事故ならば20等級に戻ります。

そのため、今回の事故による修理費と、3等級下がることによる3年間の保険料UP額の天秤により、

保険を使うかどうか判断することにしたのですが、圧倒的に保険を使った方が得をすると分かったので、

今回は遠慮なく保険を使うことにしました。

 

 

その際、疑問に思ったことがあります。

 

 

今回の事故の修理費の見積もりが異常に高かったことです。(想定の倍ぐらいでした)

こちらとしては、保険を使うことが前提で修理費を見積もりしているので、高くても文句は言いません。

どうせ保険だし、多少高かろうがきちんと直してもらいたいのが本音です。

 

それとは対照的に、保険会社はできるだけ安く修理してコストを抑えたいはずです。

しかし、実際に修理する業者は、支払い元が保険会社だと分かった時点で、

修理費を水増ししている可能性があると思うのです。

 

わたしは修理する場所として、自分が車を購入したディーラーを選びました。

もし、自費で修理するなら、いくつか見積もりを取って最も安い所を選ぶでしょうが、

修理費を保険会社に支払ってもらうのであれば、修理費について競争原理を働かす必要はないので、

最も安心感のあるメーカー系列のディーラーを選びました

 

立場は代わり、保険会社としては最も安い修理費の業者に任せたいはずです。

しかし、保険会社は修理工場を選ぶことはできないのです。

そのため、修理業者には競争原意が働かず、高い修理費を請求することができます。

 

保険の規約をみると、「できるだけ指定業者に修理を依頼してください」とあります。

指定業者とは、保険会社の息のかかった業者です。

しかし、事故した当本人は、最もなじみの深い業者に車を持ち込むでしょう。

そういった行動が、このような水増し請求が横行する背景にあるのだと思います。

 

 

視点を変えると、医療費についても同様のことが起こっていると推測できます。

人間は、自分の腹が痛まないとなると、チェックする目が緩くなります。

そのような隙間を縫って過剰請求をしているケースが結構あると思うのです。

 

過剰な医療費の請求に生活保護者が利用されているケースがあるという話も聞きます。

とある病院では、病院に長期にわたって入院しているという数人の患者は、

特に治療もせず生活保護を受けながら入院しているとのこと。

 

医療業界の不正請求には、この他にも様々なものがあります。

 

■架空請求

 診療していないのに、診療したことにして診療報酬を不正に請求する。

■健康診断の保険請求

 健康診断を保険請求する。(健康診断には保険は適用されません)

■看護婦等の水増しによる請求

 看護要員が長期にわたって不足していたにもかかわらず、診療報酬を不正に請求する。

■付増請求

 血液検査の際、採血は1回なのに数回に分けて検査したように診療報酬を不正に請求する。

■振替請求

 外来診察なのに入院診察として扱い、診療報酬を不正に請求する。

■二重請求

 患者が自費で診療したものを、保険診療したとして二重請求する。

■重複請求

 健康保険の継続療養の対象となる傷病について、健康保険、国民健康保険の両制度に請求する。

 

 

これらの不正を無くすためには、取り締まりを強化すると同時に、

罰則を厳しくするしか無いと思います。

理想を唱えれば、「性善説」に基づいて運用されるべきなのですが、それを期待することは無理でしょう。

 

 

人間は損得勘定で行動する生き物です。

本意ではありませんが、「性悪説」で取り締まるか、「競争原理」を働かすしか不正は無くならないと思います。

世の中、「良い人」ばかりではありませんからね・・・

 

テロップが必要とされる時代

最近、というか、以前から気になっていることがあります。

それは最近のテレビで当たり前のように流れている「テロップ」(字幕スーパー)の存在です。

あれはいつから一般的になったのでしょうか?

 

わたしの大好きなウィキペディアによると、発祥は「バラエティ番組」のようです。

 

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テロップとは1990年代前半から増え始めた演出。『進め!電波少年』が元祖とされる説と、『探偵!ナイトスクープ』

が元祖とされる説があるが、後者では『電波少年』が放送を開始する約4年前の1988618日放送分で初めて

コメントフォローテロップが使用されたとの記録があり、客観的な史実から見れば明らかに『探偵!ナイトスクープ』

のほうが元祖である。宝くじを買う理由を道行く人にインタビューする際、ある老人が「難民に寄付する」と

言ったところ泣き声になって聞き取りにくかったためテロップを出したのが始まりであり、

『電波少年』ではプライムタイムの放送にもかかわらず低予算で組まれていた番組のためロケの模様を

市販ビデオカメラで撮影する場合に、音声をうまく収音できなかったため、

苦肉の策としてテロップを積極的に活用したものとされている。

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                                        Byウィキペディア

 

 

この「テロップ」については賛否両論があると思いますが、

番組を分かりやすくするという点については概ね賛成だと思われます。

 

わたしは耳が悪いのか、ボリュームを大きめにしないとテレビの音を聞き取れません。

そのため、わたしがテレビのリモコンを握ると、ついついボリュームを上げてしまうのですが、

嫁からはいつも「ボリュームを一定以上に上げるな」と苦情が入ります・・・

 

そんなわたしにとって「テロップ」は有難い存在なのですが、最近ではやたら滅多ら増えた気がします。

一説によると、テロップを入れるか入れないかで視聴率に影響が出るようです。

そのため、バラエティでは高視聴率を狙う各局が競って入れているのだと思われます。

 

しかし、バラエティ番組に限らず、余計なお世話だと思うテロップも多いです。

それは、ごくごく当たり前のことをテロップにしている点です。

 

 

例えば、タオルを巻いて温泉に入っているシーンを撮影している際、

「撮影のためタオルを使用しています」と必ず出てきます。

危険なシーンの撮影では、「真似をしないでください」「許可を得て撮影しております」

また、テレビのCMやカタログには、「液晶の画像はめ込み合成です」と書いてあります。

 

これらのことは周知の事実なのですが、あえて表示しているところをみると、

表示しなければならない理由があるのでしょう。。。

先日、たまたまそのようなシーンに出くわしました。

 

休日に温泉に出かけた際、露天風呂でゆったりしていると、

タオルを巻いたまま湯船につかろうとしている不届き者がいるではありませんか。

高校生ぐらいでしょうか?

局部を他人に見られるのが恥ずかしいらしく、タオルを取ろうとしません。

しかし、友人に注意されてしぶしぶタオルを湯船から出していました。

また、嫁いわく、女性風呂ではバスタオルを巻いて風呂に入ろうとして強者もいたようです。。。

 

 

なぜこのような当たり前のルールが分からないのか理解に苦しみます。

 

 

周囲に注意をしてくれる友人がいるから良いようなものの、

成人してもそういう友人がいなければ、一生間違ったことをし続けることになります。

 

おそらく昔は、知人かどうかに関わらず、教育好きなオジちゃんオバちゃんがいて、

間違ったことをしていたら「それは違う」と指摘してくれていたのだと思います。

しかし、最近はそういう人達を見かけなくなりました。

 

自分自身も、他人の子供まで”叱るか?”と言われれば、よほどの事がない限り注意しないと思います。

注意して、その子の親が怖い人だと大変だから・・・(笑)

 

 

そうなってしまうと、至極当たり前のことにまで「テロップ」を入れなければならないのでしょうか?

時代の変化といえば、それまでなのですが、違和感を感じる今日この頃です。

大阪市役所の職員のように、「刺青(いれずみ)を職員同士で見せ合う価値観」がまかり通る世の中ですから、

仕方がないかもしれませんね・・・

 irezumi.jpg


あ、こんな刺青(いれずみ)なら洒落で許されるかも()

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チームワーク

「チームワーク」

ありきたりな言葉ですが、私は好きです。

 

 

“チームワーク”とは集団に属しているメンバーが同じ目標を達成するために行う作業、協力、意識、行動など。

By ウィキペディア

 

 

私は自分で言うのも何ですが、「スポーツマン」です。

野球/サッカーなどの団体競技と、テニス/ゴルフ/スキーなどの個人競技のどちらも経験してきました。

サッカーは今でもプレイヤーとしてやっていますが、

最近では、自分で得点するよりも、味方にアシストして決まった時の方が喜びを感じます。

 

 

今の職場において、チームワークを特段意識している訳ではありませんが、それは明らかに存在します。

しかし、チームワークを醸成するために何一つ特別なことはやっていません。

世の中には会議の多い会社が多いですが、うちの職場ではミーティングは”皆無”です。

 

なぜなら、同じ感覚を共有している仲間の中では、特別なミーティング等は必要ないと思っているからです。

同じ感覚とは、普段の仕事話や雑談の中で共有できます。

これが実現できる理由は、小所帯だからということがありますが、

普段のちょっとしたコミュニケーションを重視すれば、ある程度の規模でも実現は可能だと思います。

 

また、私はアナログなコミュニケーションを重視しています。

アナログなコミュニケーションとは、簡単に言えば会話のキャッチボールとか相手の顔色を見ることです。

そのため、弊社は全員で一つの大きなデスクを囲んでおり、何かあれば仕事中でもすぐに会話ができます。

(個々の仕事に集中するためのパーテーションの類は一切ありません。)

 

 

これらの事は、以前いた会社から反面教師で学びました。

私は一時期、その時代に乗りに乗っていた新興企業にいました。

そこでは、One on Oneという11の強制的な1週間に1回のミーティングと、

個人が集中できるという理由で個々の机を仕切る「パーテーション」がありました。

 

管理職の会議が四六時中あり、自分の仕事ができるのは、就業時間終了後という状況でした。

また、仕事の役割分担が明確になされており、全体最適よりも個々の最適が重視されていました。

そして全てがKPIという数値で管理され、評価は全て数字でなされていました。

 

今思うと、外資系企業に近い形態だったのかもしれません。

(外資に勤めた経験はありませんが・・・)

 

とにかく、全てがデジタルなのです。

アナログ世代の私にとっては苦痛の日々でした()

このようなデジタル経営が最終的にどうなったかというと、凋落の一途を辿り、外資に買収されました。。。

 

 

私が思うに、デジタル経営は日本には馴染まないと思います。

 

 

確かに、経営を効率化するためには、数値で管理する部分は必要だと思います。

しかし、数値に現れない「組織への貢献」は存在します。

スポーツではそのような貢献度も評価の対象になります。

 

例えば、サッカーで言うならば、相手のディフェンスを引き付けてスペースを作る動きとか、

野球で言うならば、ファールで粘って相手投手を疲れさせるとかです。

声を出してチームを活気づけるというのも貢献の一つだと思います。

 

 

チームワークとは、目に見えないものの積み重ねであり、犠牲の精神の上に成り立つものだと思います。

皆が「自分が自分が」という気持ちで仕事に取り組むことは悪いことではないのですが、

それだと必ず歪(ひずみ)が生まれます。

 

自分で得点することも大事ですが、最終的には”チームの勝利のために個々がどう動くか”ということを

全てのメンバーが理解している状態が理想的だと思います。

人間の能力やキャパシティは限られており、1人の人間でやれることには限界があります。

それを組織で行い相乗効果を生み出すことが重要なのです。

 

 

その手段として、デジタルな組織運営やシステム化というやり方があります。

弊社の事業(人材紹介)は求人数と候補者数が増えれば増えるほどマッチングの確率が高まりますが、

それをデジタル的なシステムでマッチングすることには限界があると思っています。

 

そもそも、候補者の人間性や志向性を完璧に経歴書に落とすことは不可能です。

また、医療法人や企業の風土や雰囲気を求人票に落とすことも不可能です。

これらの細かな特性を含めたマッチングを可能にするのはアナログ方式しかないと思うのです。

 

弊社では、自分の担当した候補者に適した求人が無いときは、周囲のメンバーに相談するようにしています。

安易にシステムでのマッチングはしませんし、個人で背負いこむことも無いようにしています。

それを可能にするのが、オープンなコミュニケーション空間なのです。

 

1人で考えて分からないことも、組織で考えれば何らかの解が得られます。

求人開拓の電話で嫌な思いをしたとしても、みんなで愚痴を言えば気分が晴れます(苦笑)

仲間がいることで救われることは多々あります。

 

世の中のサービス業を営む会社からすると、生産的では無いのかもしれませんが、

デジタル化するメリットよりも、アナログで居続けるデメリットを受け入れつつ、

アナログなメリットを最大限活用したいと思っています。

 

組織で仕事をするからには、チームワークが重要です。

そのためには、時には犠牲の精神も必要なのです。

ちなみに、弊社の事務所には以下の「額」が飾ってあります。

                      By 相田みつを

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火事場のクソ力

前回のブログで上期黒字化達成と書きましたが、実はこの勢いで年間黒字化も狙っています。

 

つい先日、ベンチャー通信のコラムで、下記の記事を目にしました。

「ベンチャー企業が黒字化に要する平均期間は創業から30ヶ月で、

累積損失を一掃するまでに75ヶ月かかる。」というものでした。

 

アメリカでの調査結果なので、日本企業に当てはまるかどうかは定かではありませんが、

30か月は2年半、75ヵ月は6年強なので、感覚的にはズレていない気がします。

なにせ、わたしが出資者と交わした約束は、3期目に単年度黒字5期目に累損解消だからです。

 

 

弊社は今期2期目なので、もし今期に単年度黒字化を達成すれば、

約束よりも早いペースで進んでいることになりますが、この先どうなるか予断は許しません。

ただ、不言実行よりも有言実行の方がカッコイイので、なんとかやり遂げたいと思っています。

(今年の楽天のマー君は有言実行でとてもカッコよかったです。)

 

 

そのベンチャー通信では、日本にはベンチャーにお金を投資する人が少ないことを嘆いていました。

日本のベンチャーキャピタルの投資残高は1兆円、米国の130程度に過ぎないそうです。

また、銀行に至っては、リスクの高いベンチャーにはお金は貸しません。

さらに、個人の投資家(エンジェル)なんて皆無だと思います。

 

 

「銀行は雨の日に傘を取り上げ、晴れの日に傘を貸す」という言葉は有名です。

 

 

その理由は簡単で、銀行にはリスクマネーを見抜く力が無いからです。

彼らは担保の無い融資はしませんし、運転資金についても3か月黒字じゃないと貸してくれません。

リスクを取らずしてリターンは得られないはずなのですが、彼らはリスクを極端に嫌います。

(だから国債ばかり買っているのです)

 

世の中、当たり前の話ですが、リスクとリターンは比例します。

高いリスクをとれば、高いリターンが返ってくる可能性は高まりますが、

失敗する可能性も高くなります。

 

そのため、ミドルリスク・ミドルリターンを狙う人が多いのだと思います。

一流の大学を卒業して大企業に入社するのも、その典型だと思います。

それが悪いわけではありませんが、大半がそのような考えでは、経済が活性化しない気がします。

(かくいう私も以前はそのような考えの一人でした。苦笑)

 

 

人間は、自分が安定しているときに、積極的に不安定な状態にしようとは思わないものです。

だから、高学歴者ほどリスクテイクしないのです。

日本の官僚もその典型ではないでしょうか?

 

事務次官を目指しているエリートに、リスクテイクしろというのが無理な話です。

リスクを負える人というのは、どちらかというと苦境に追い込まれて、後の無い人なのかもしれませんね。

積極的なリスクテイクとはいえませんが、わたしもその一人なので気持ちはよく分かります。

 

 

ちなみに、近々の話題ではTPPに参加するか否かで揉めていますが、

こちらに至っては、否定派がなぜそこまで拘るのか意味が分かりません。

わたしの勉強不足もありますが、とりあえず交渉に参加してみることに何故反対なのでしょうか?

 

 

既得権益にしがみつかず、とりあえずやれるところまでやってみたら良いと思います。

誰しも、お尻に火が付けば、「火事場のクソ力」でなんとかなります。

まずはトライしてみることが大事だと思います。

 

 

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危険察知能力

最近の学生の就職動向をみていると、大手志向が目立ちます。

彼らは、良い意味で堅実、悪い意味でチャレンジ精神が足りない気がしています。

わたしなり原因を考えてみるのですが、幼少期からの時代背景もあると思います。

最近の学生というと、「ゆとり世代」に代表されますが、彼らはバブルを経験していませんし、

常に不景気とデフレの時代を生き抜いてきたといっても過言ではありません。

就職も超就職氷河期ともいわれ、大卒でも6割程度しか就職できていませんし、

最近では就職時のライバルが外国人というケースも珍しくありません。

このような世代は、今後日本経済が良くなるとは思えないので、堅実にならざるを得ないのでしょう。

逆に、現在70代後半のお爺ちゃん達は非常に元気です。

わたしの父もそうですし、弊社の株主にも現役の経営者をしている方がいます。

この世代は、戦争も経験しており、サバイバルな状況を生き抜いてきたので、

未だにチャレンジ精神が旺盛なようです。。

このように、育ってきた時代により、心の持ちようが異なるのは致し方ないことですが、

今の若い人たちが、もう少し、アグレッシブに生きることができないものでしょうか?

自分の子供に対しても、どうにかしてチャレンジ精神旺盛な人格にできないものか、思案しています。

だからといって、今から戦時中のようなサバイバルな状況を作り出すのは現実的ではないのですが、

少なくとも、競争的な環境に放り込みたいと思っています(笑)

話は少し逸れますが、

今年の夏、実家に子供と戻った際、地元のプールに行って驚いたことがありました。

そのプールは私が小学生の頃に通った場所なのですが、当時とはどうも様子が違うのです。

一言でいうと、少しでも危険なことは全て禁止されていたということです。

例えば、大人用プールの中心にあった噴水の周りに柵ができていたり、

子供用プールにあるクジラの置物から出ていた噴水は、滑りやすいということで、水が出なくなっていました。

また、80cm程の水深のプールには、親が同伴でも、未就学児は入れないルールになっていました。

とにかく、子供を危険から遠ざけるために、物理的な危険回避策やルールでガンジカラメなのです。

子供は、遊びを通して「危険察知能力」を磨いていくものだと思うのですが、

何から何まで大人の指示で禁止されてしまうと、これらの能力が無くなってしまう気がします。

さらに話が逸れますが、電化製品についても同様の事がいえます。

扇風機の格子が代表的な例です。

昔の扇風機の格子の幅は広く、子供の時は少しずつ指を入れて危険を楽しんだものです。

最初は「弱」で始め、徐々に慣れてきたら「強」に挑戦するみたいな・・・

確かに危険な遊びではありますが、これで指が無くなったという話は聞いたことがありません。

今では格子の幅が狭くなり、子供の指が入らないサイズになっていますが、非常に残念です。。。

このように、わたしが子供の頃は、周囲には危険がいっぱいでしたが、

不思議と大怪我をすることは少なく、全ては自己責任で処理してきました。

そのため、全身全霊をかけて、それがどれぐらい危険かどうかを見極めていたと思います。

いろいろと書きましたが、わたしの言いたいことは、

危険と隣り合わせの状況や、サバイバルな競争環境は、人間を強くするということです。

こういった「危険察知能力」の向上により、チャレンジ精神が旺盛になるのではないでしょうか?

「可愛い子には旅をさせよ」ですね。。